水土里ネット宮崎について


土地改良区とは、農業生産を行ううえで欠かせない用排水施設の整備・管理や農地の整備など、いわゆる土地改良を目的として設立された農家の人たちの組織で全国に約6000組織あります。
県土・県民生活を支える土地改良区は、土地改良法に基づいて、農業水利施設や農地、農道などを整備、管理するために地域の農家が集まってつくった公的な団体です。県内には174(平成27年4月1日現在) の土地改良区があります。
具体的な活動としては、農業を営む上で必要な用水を確保するための水源の確保や用水路の整備・管理・農地や地域の雨水、集落からの排水などを安全かつ確実に排除するための排水路の整備・管理を行うとともに水田や畑地の整備などを行っています。 ちなみに、こうして整備された全国の農業用用水路の延長は、約40万Km(ほぼ地 球10周)にも達しています。
県内の農業用の用水路と排水路は、土地改良区等によって管理されているものだけでも延長約1万2千キロメートル(およそ宮崎市からアメリカ・ニューヨークまでの距離)と地球4分の1周分を超えます。また、県内のため池約700ヵ所の貯水量の合計は約1,900万立方メートル、25m×15mプール約33,900杯分にもなります。
一方、社会経済情勢が大きく変化する中、農地や農業用水は、食料の安定供給に欠かせない基盤であるとともに、国土の保全や美しい農村景観など多面的機能を持つ大切な資源であるという意識が国民の間で高まってきています。
土地改良区は、ふるさとの環境を育んでいるこのような資源を大切に守り育てることを通じ、新たな時代にふさわしい豊かで住み良い農村づくりを目指して、市町村を始め、地域に住んでいる人たちみんなの理解と協力を得ながら、積極的に活動して行きたいと考えています。 土地改良区は、こうした大切な国民の財産とも言える農地や農業用水を守り、育て、豊かな地域資源を次世代に引き継ぐ役割を担っている組織なのです。
中山間地域では、何十Kmに及ぶ水路管理を組合員総出で行っています
混住化した地域においては、地域住民も参加した水路の清掃作業も少しずつふえてきました。
下流では、様々なゴミが流れ着き土地改良区の管理負担の増大につながっています。
河川の水を堰き止め用水路に水を取り込む「頭首工(堰)」、用水を農地まで届ける「用水路」、農地などからの水を集めて川に戻す「排水路」、河川の水を貯める「ダム」、小さな谷間に築かれた「ため池」、河川の水を用水路にくみ上げる「揚水機場」など様々な農業水利施設が県土にくまなく広がっています。

 

司馬遼太郎が著作「この国のかたち」の中で「稲作は伝来のときから農業土木がセットになっていた」と述べているように、農業、とりわけ米作りのためには、水田を拓き、農業用水を確保すること、すなわち農業土木(土地改良区)が不可欠でした。
宮崎県では古代から農耕が行われてきましたが、平野部の開発が本格化するのは、農業土木技術が発達し、大きな河川に堰を築き、長大な用水路を開削することが可能となる藩政期以降でした。
西都市の杉安井堰、延岡市の岩熊井堰は、藩政期における代表的な農業用水です。これらの用水の開発には、先覚者や農民の多大な苦労と費用、長い時間が必要でした。
宮崎県の耕地面積は、鎌倉時代から戦国時代期にかけて8千町歩で推移していましたが、藩政期の新田開発などにより、18世紀前半には4万2千町歩(1町歩は約1ヘクタール)に、19世紀末には約9万町歩にまで拡大しました。
先人たちが拓いた農地や農業用水は、その後も絶え間なく手が加えられ、県土に歴史として歴史として刻みつけつけられているだけでなく、今日も地域を潤している。

【図をクリックすると拡大表示されます。】
杉安井堰(頭首工)は、西都市役所から国道219号線を北へ約5キロメートルの一ツ瀬川の中流域に位置しています。
児玉久右衛門は、元禄2年(1689年)に穂北郷の庄屋の息子として生まれました。 ところが、この地帯は水利の便が非常に悪く、取れるお米は年貢の10分の1 程度で、先祖代々引き継がれた農地を手放す農家も少なくありませ んでした。
これを見かねた久右衛門は、米良川(現一ツ瀬川)より水を引き、水田の造成を考え、藩の許可を得て、享保5年(1720年)に水路と井堰造りに着手しました。途中、出資者の変更、工事の妨害、洪水による堰の流失など幾多の問題がありましたが、享保7年(1722年)に第1期工事が完成し、14町歩(約14ha)を潤しました。寛延3年(1750年)に第2期工事が完成し、水田80町余(約80ha)をかんがいし、後に水田600町歩(約600ha)に達しました。その後、幾多の改修と昭和8年(1933年)及び昭和52年(1977年)の大改修により、現在の近代的頭首工が完成しました。
久右衛門の大事業に村民は深く感謝し、毎年米36俵を永代子孫に寄贈していましたが、現在では奉賛金として霊前にお供えし、11月には児玉久右衛門翁をしのび、慰霊祭がとり行われています。
(出典:県農村建設課発行「碑が語りかける水と土」より)